MINATO_Akiraのブログ

ポストロック・バンド MINATOのギターAkiraのブログ。

僕にとってのHi-STANDARD.

僕にとってのHi-STANDARD.

 

著名人、有名人の訃報は幾度となく目にする。

その度に、視界がグラッとするような、胃に鉛の落ちたような気分になる。

それでも、先日の訃報は自分にとって受け入れるには時間がかかった。

 

 

Hi-STANDARD恒岡章さんの訃報

声にならなかった。

その日、一日どこか上の空で

「恒岡さんが亡くなった…」「Hi-STANDARDのドラムが…」と頭に靄がかかったように過ごしていた。

 

そうは言っても、僕はツネさんとなんの関わりもない。1ファンでしかない。

実際の関係者や友人・家族・何より健さんや難波さんの悲しみは計り知れない。

それ故に、特に涙を流すわけでもなく、ふらふらと1日を過ごすだけだった。

 

そんなもんだと思った。

今でもハイスタは聴く。勿論聞く。大好きだ。間違いなく僕の原点だと思う。

だけどパンクやメロコアバンドやってるわけでもないし、楽器もドラムを叩いてるわけではない。

それにそもそも世代じゃない。本当のエアジャム世代は僕より10歳以上年上の方が多い。

10代の頃に比べたら、好きな音楽の幅も広がったし、最近のキッズのノリについていけないおじさんだと思う。

今は大きなフェスがあっても、ハイスタ目当てで行くこともないだろうし、新譜が出ても「うぉおおおお!!」とはならないだろう。

そんなファン。

一線を引いたファン。

 

 

ウチのが帰宅した時も、すぐに「ハイスタのドラムの恒岡さんが亡くなった」と話した。

「え~……」なんて、言われながら、ごくごく淡々と

 

「え…病気…?」

「いや……死因は発表されてないんだって…確認中だって…」

「え…?じゃあ…」

「ううん…わかんないけどね…そういう想像はしちゃうけど…」

「そうだね…詳細が分かりづらい事故とか火もしれないしね…」

「そうね……そっかぁ……」

 

そんな会話をした。

数分後には二人で夕飯の買い物にも出かけた。

落胆はしても、狼狽えたり、泣いたりしない。

そんなもんだと思った。

 

 

 

だけど、その日の晩酌中に、また少しだけ恒岡さんの話題になった。

なったというか僕が話したんだろう。

経緯は覚えていない。

気づいた時には僕は嗚咽を漏らして、ボロボロと泣いていた。

自分でも驚いた。

ただ一言だけ、自分で言った言葉で、堰を切ったように泣いたことは覚えている。

 

 

「だってHi-STANDARDなんだよ…」

 

僕の中でそれが全てだったんだと、後から自覚した。

色んな思い出が溢れて、ただただ泣いた。

 

 

高校生の頃、勝手に姉のCDを漁ってて、初めてMAKING THE ROADを聴いた時の衝撃。

家には他のアルバムはないから、とTSUTAYAまで自転車一時間かけて漕いで借りに行ったこと。

その当時は活休状態で、「二度とライブを観られないかもしれない」と後から知った時のこと。

初めてYoutubeAIRJAM2000の映像を見た時のこと。

ENDLESS TRIPのMV観ながら、「カッケー!ツアーってこんな感じなのかな!」と興奮してたこと。

「一生で一回でいいからハイスタを観てみたい」と切に願ったこと。

登下校の日々、田舎道を自転車で走りながら、いっつも聴いていた時のこと。

学校の友達は誰も聴いてなくて共有する友達がいなかったこと。

初めてエレキギターStarry Nightを弾いた時のこと。

STAYGOLDは難しくて中々弾けなかったこと。

 

 

震災でハイスタが復活した時のこと。

一人で夜行バスで仙台まで行って、AIJAM2012で初めて生でハイスタを観れた時のこと。

人生で初めて、そこでクラウドサーフした時のこと。

曲はMaximum Overdriveだったこと。

 

 

お風呂上がりにSaturday Night流してハイテンションで踊り狂って、ウチのに苦笑いされたこと。

去年のフジロックYOUR SONG IS GOODで、「ドラム、ツネさんだよ!ハイスタのツネさん!」とウチのに話してたこと。

大人になっても、なんだかんだ聴くことが多かったこと。

ハイスタに出会ってなければ音楽もやってないし、自分の世界が広がらなかったこと。

自覚していなかっただけで本当に自分の原点だったこと。

 

 

そんな事が、

書ききれない思い出や気持ちが、頭の中で走馬灯のように流れた。

 

「だってHi-STANDARDなんだよ」

「ハイスタなんだよ」

「ハイスタのツネさんだよ…」

 

そう言いながら、ぐちゃぐちゃに泣いた。

大の大人が鼻水垂らしながらわんわん泣くもんだから、ウチのも困っただろう。

それでも、ゴメンと泣きじゃくる僕に、「うん…うん…」とただ横にいてくれた。

ウチのがいなかったら泣けてなかったかもしれない。

話せてよかった。思い出せてよかった。気づけてよかった。泣く事ができてよかった。

今はそう思う。

 

失って気づく存在のデカさ。

ただただ、味わう喪失感。それを自覚できなくて一日ふわふわしてたんだろうと。

 

 

 

 

悲しい。

寂しい。

結局それに尽きる。

 

 

 

 

 

後日、PIZZA OF DEATHからの健さんと難波さんの声明を読んでから、少しだけ感情が落ち着いた。

落ち着いたというか冷静になった。

上記にも書いたが、関係者や友人・家族・何より健さんや難波さんが一番辛いに決まってる。

どこから目線だよ、と思うけど、ファンとして心配にもなる。

健やかであってほしいと願う。

 

ハイスタが続くことに対しては、僕は賛否も何もない。

不思議と「そうなんだ。そっか」と思っただけだった。

淡々と良いとも悪いとも思わずに、そう思った。

きっと、それはあくまで僕の憧れたハイスタは、あの3人だから。

これからのハイスタを受け入れないとか、これからは「ハイスタじゃない」とかじゃなくて、

またそれはそれとして感じるんだろうな、と。

いつかライブにも行きたい。

 

 

 

 

 

最近、人生は長いんだか短いんだかわからなくなってきた。

今までは短いと感じていたし、いつ死んでもいいようにと生きてきた。

それが、パートナーができて、「個」が薄れて、暮らしが定着してくると、ずいぶん先は長いようにも思える。

それでも、やりたいこと、やってみたいことは無くならないし、限りある人生だから、

できる限りやるだけやって、その途中で死にたいと思う。

また、喪失感からのそういった気持ちは、特に強いように感じる。

今回の訃報を知って、しばらくして、すごくメンバーの顔が見たくなったし、音を出したいと思った。

なんだか皮肉なものだな、と思った。

 

きっと、こんな喪失感を味わうことはないようにも思える。

だけど、やっぱり自覚してないだけで、

自分の人生に多大なる影響を与えた人達がきっとたくさんいるんだろう。

早めに少しでも自覚して〜なんて思うが、

いややっぱりそんなことは不可能で、理不尽にも感じる訃報のニュースを聴いて愕然とする未来しかないんだろう。

 

 

 

 

まだハイスタは聴けてない。

色んな感情がぐちゃぐちゃになってしまいそうで怖いから。

自分の中で自然と聴きたいと思う時がきっとくるから、それまでは大人しく待ってる。

その時が楽しみだな。

大好きなバンドだから。

 

最後に、1ファンとして、

恒岡章さん、この世に素晴らしい音楽を残してくれて。本当にありがとうございました。

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

音楽と自分の投影 toeとグッドバイ

 
音楽と自分の投影 toeとグッドバイ
 
以前に別のサイトで敬愛するtoeの歌詞について、考察のようなものを書いた。
 
それが色んな人に読まれてるとはつゆ知らず。
 
 
 
 
 
バンドで本当に久しぶりに歌詞を書いた。
最後まで書いたのは、これが初めて。
ここ最近のことや過去現在未来と想いを馳せて書いた。
コロナ渦にならなければ絶対に生まれていない曲だなとも思う。
それだけに、思い入れが強い。
ライブでやるのが楽しみだ。
その上で、自分の歌詞を客観的に見ようとしたり、色んなアーティストの歌詞をよんだりしながら、ぐるぐると頭を回っていた時に、ふと、昔に書いた手記を思い出した。
それがtoeのグッドバイについての歌詞だった。
 
随分前に書いた、青臭い文章。
もう8年も前になる。
当時僕は、失恋やら、それ以外での色んなものの喪失/裏切りを覚え、勢いのままに文章を書いていた。
それは今もそこまで変わらないかもしれないが、当たり前だが、今よりももっと若かった。
考え方も、行動も、趣味趣向も、何もかも。
 
それでいて、いつの頃だったか、友達から
 
toe グッドバイ で検索すると、アキラのサイトが一番上に出てくるよ!」
 
と言われた。
 
物凄く驚いたし、嬉しくもあったのだが、すごく気恥ずかしく、申し訳ない気持ちにもなり、それを知ってからサイトを更新することはしなくなった。
2015年以降は書いていない。
どの文章も小っ恥ずかしく、消そうかとも思ったのだが、それでも人生において一応の黒歴史も必要だろうと、消すことはしなかった。
そんな黒歴史を、久しぶりに見返そうと辿った矢先、何度か感想のメールを頂いたこともあって、ふと「今も見てる人いるのかな?」なんて気になった。
 
 
「いないだろう」と思って、Twitterで検索をかけたら、思った以上に読んでる人がいた。
また、共感してくれる人もいた。
これまた、ありがたく、小っ恥ずかしく、そして申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
そんなツイートに、ぽちぽちといいねを押して、回って、また恥ずかしくなって。
 
数年前のツイートにいきなり、朝からいいねが来たら気持ち悪いだろう。
冷静に考えて申し訳ないことしたな。
すいません。それは僕です。
 
あの文章を読んだ方に、謝罪と感謝を言いたい。
ごめんなさい。そして、ありがとうございます。
あれを書いたのは僕です。
 
 
重々おわかりだとは思うが、あくまで僕の解釈です。
toeの山嵜さんがどんな思いで、あの歌詞を書かれたのかは全く知る由もありません。
もしも、あの文章で変な印象をもったり、フラットな気持ちで曲を聞けなくなった人がいたら本当に申し訳ない。
そして、一ファンにごにょごにょと、勿体ぶって解釈されたtoeの皆様にも申し訳ない。
和訳も、僕の主観もあって、公式では無いです。
 
 
 
ただ、それでも共感してくれたり「いいな」と思ってくれる人がいてくれたのも事実で、それは本当に有難い。
あの文章でよりtoeを好きになってくれる人がいたら、こんなに嬉しいことはない。
書いてよかったな、と思う。
繰り返しになるが、あくまで僕の解釈。
それでも、喜んでもらえる人がいるのであれば、書いてたり残してたりしてもいいんだな、と思えた。
 
 
 
黒歴史は相変わらず、放置する。
きっと、何年経っても、「消そうかな、いや昔のお前はこうだったんだぞ」と自分に言い聞かせては消さない気がする。
そうかと思えば、急に「もういっか」と消すかもしれない。
 
そんな黒歴史を、今一度忘れないようにと、ここにも留めておくことにする。
放っておいたら、サイトのURLすら忘れそうになるし、今、文章を書くのはここだから。
 
 
 
 
今読んでも、やはり、僕の解釈はそこまで変わりはしなかった。
馬鹿馬鹿しいが、「音楽と自分の投影」とタイトルに付けているのだが、toeのレイテストナンバーにも「投影する」と言う歌詞が出てくる。
こじつけだが、何かシンパシーを感じて嬉しくなる。
痛いファンだなぁとはわかってる。
 
 
恥ずかしいけれど、お初の方も、読んだことある人も、よければ読んでみてやってください。
大学生の僕が書いた、toeのグッドバイについて。
僕の処方箋。大好きな曲です。
 
 
 
 
 
 
 
 
:::音楽と自分の投影 toeとGoodbye:::
 
今回は大好きなtoeというバンドについて書きます。読み終わって興味があれば是非聞いて見て欲しい。
 
 
toe-グッドバイ
 
 
There is no one can understand me truly
I do not go out and I will keep silence
 
Everyone is mania in general
You don't have time to sleep for to know others
 
It's more complex than how I used to though
But already I know the start is the end
 
Everyone is mania in general
You don't have time to sleep for to know others
 
うまく届かないんだ ...Humm
また次の不安か? ...Humm
A disruption and blinder ...Humm
その先は無いんだ ...Humm

うまく届かないんだ ...Humm
また次の不安か? ...Humm
A disruption and blinder ...Humm
その先は何だ? ...Humm
=================================
和訳
 
僕を理解してくれる人はいない
どこにも行かず、沈黙を守るだろう

 

躁鬱はデフォルトで
君は他人を知る為に眠る時間もない
 
それは思ってたより複雑だった
だけど、もう知ってる、始まりは終わり
 
躁鬱はデフォルトで
君は他人に夢中で眠る時間もない
 
上手く届かないんだ 
また次の不安か
分裂と目隠し
その先は無いんだ 
 
上手く届かないんだ 
また次の不安か
分裂と目隠し
その先は何だ            
 
=======================
 
 
2000年に結成したポストロックバンド。日本のインストバンドの金字塔じゃないんだろうか。
楽曲は幻想的かつ叙情的なのだが、演奏は激情。前身バンドがDOVEやREACHであったため、ハードコアのテイストが楽曲にみられるが、ライブではさらに如実に見られる。
メンバーの表情が本当に豊かで、音源にはない熱量がライブにはあり、パフォーマンスも有名。
またギターの山崎さんは、空間デザイナー、もう一人のギターの美濃さんはレコーディングエンジニア、ベースの山根さんはクロックスのアジアアパレルマネージャー、ドラムの柏倉さんは木村カエラのサポートドラムやthe HIATUSに所属しているなど、toeというバンド意外に職業があるところがおもしろい。
前身バンドで知名度があるとはいえ、本人達にしたら、サラリーマンや学生と同じ様にライブや音源を作る感覚で日常と平行して音楽やっているのだろうか。
もし、本当にそうなのであれば羨ましい。憧れる。また自身のレーベルから海外のアーティストのCDをリリースするなど、海外との交流も多く、アジアやヨーロッパツアーをする等、海外での認知度、人気度は高い。
youtubeなんかを見ると日本人のコメントより海外の人の方が多かったりもする。
 
そんなtoeの数少ない歌の入った曲。『グッドバイ』
一体何度この曲に救われれば気がすむのだろう。。。
自分の感情を100%汲み取ってくれる曲と言っても過言ではないくらいに、この曲は自分にリンクしすぎる。
toeを好きになったきっかけの曲。初めて聴いたのは高校二年生くらいで、PVも含めて「あぁ、なんだかお洒落だなぁ」という感じで、それからは本当にたまに聴く程度だった。
恐らく、好きになったのは大学に入ってからのここ一年間。アルバムも中古だけどほとんど購入し、iTunesでしか聴けない曲も購入した。
Live映像も呆れるくらい観て、実際のLiveも行った。圧巻だった。
MCはゆるいのに、プレイはタイト。
それでいて、なんであんなに優しくて、悲しくて、切ないんだろう。
そして、その中に垣間見える強さに、とことんやられた。
まぁ、まだ二十代前半の枠組みに入った若僧がtoeの音楽性について熱く語っても、説得力にかけるのでこれくらいにしておこう。
 
この曲の歌詞についても真意は計り知れない。
憂いているのか、悟っているのか、それとも抵抗しているのか・・・・
恐らく山㟢さんが書いたのだと思うが、夢を見るのであれば、ゆっくり会える事があるのであればどういう意図で書いたのか聞いて見たい。
もしかしたら、適当に書いたのかもしれない。ただ単純に溢れて来たのかもしれない。
アーティストの中では「音の響きとなんとなく」なんて結構あったりもする。
特にtoeインストバンド。歌詞や声も音の一部として捉えている気がする。
 
また、歌詞にはYou don't have time to sleep for to know othersとあるのに、歌ではYou don't have ……to know others….
と歌っている部分も気になる。実際の曲調としては歌えるし、ゲストボーカルで土岐さんやACOさんがそう歌っているのを動画で観たことがある。
歌える歌詞を何故歌わないのか。またその省略の仕方も面白い
You don't have time to sleep for to know othersであれば、直訳で「君は他人を知る為に寝る時間がない」だ。
それに対してのYou don't have to know othersの訳は「君は他人を知る必要何てないんだ」となる。
考え過ぎかもしれないが、ここにもtoeの奥ゆかしさを勝手に感じてしまう。
余談だが、歌でいうと土岐さんやACOさんよりも山崎さん自身の声の方が好きだ。音源もNew Sentimanetaryの方を良く聴く。
なんだか山崎さんの声の方が合うというか、言葉にできない「それ」に近い気がする。
 
ネット上で見つけたのだが、Everyone is mania in generalは「躁鬱はデフォルト」と訳すとtoeが言っていたらしい。
どこかのコラムか、はたまた本人達が友人達に言っていたのか、僕みたいなファンが勝手に作ったのか、真相はわからないが、すごく好きな歌詞だ。
その訳を知った時は、ひどく納得してしまった。「あぁ、そうだよね。俺もそう思う」と勝手に共感して涙が出た。
 
このグッドバイは全ての歌詞が共感できてしまう。
いや、共感と言っては語弊がある。ただ、自分の中で常に思う事が、勝手な解釈の中ではあるが自分を投影できてしまう。
だから、本当に何ともいえない感情に陥った時、この曲を聴くと落ち着くし、涙が出そうになる。
自分の中では完全に処方箋みたいなものだ。歌詞の中には頑張ろうだとか、生きろとか、人生は楽しいとか、そういう肯定的な事は一つも言ってない。
タイトルからして、Hello ではなく 、ましてやsee youでもなくGoodbyeなんだ。
それでも、不思議に絡まった心を解いてくれる。少しだけ前を見る事ができる。
 
この曲は一緒に深い所に沈んで漂ってくれる。
 
**
あの頃よりも、理解されない事も多くなった。誤解もよくされる。
大事な人でない限り、諦めて口を噤む事や心の奥底にある感情もすぐには出さなくなった。
他人にはない葛藤が躁鬱の様に自分を取り巻き、気付けばそれは初めからあったように自分の内面にずっと佇んでいる。
そんなに人の事気にしなくてもいいのにな、と思う事も周囲に対して日常的に思う。あまり気にしすぎると寝る暇もないだろう。体が持たないよ。自由にやればいいのに
何かと出会う時、それはやっぱり自分が思っているよりも複雑なんだ。でも、進み始めた時には、もう終わっている様なもんだ、という事ももう知っている。悲しい訳じゃないんだけど。
 
それでいて、大事な事にはうまく届かないんだ。届いて欲しい人には届かないんだ。
去っていってしまうのか、受け取ってもらえないのか、理解されないのか、わからない。
ただ、うまく届かないんだ。
それで、またその先の不安を抱いている。君もそうだろう。
抱いても仕方ないのに。不安を隠さずにいられない。
分裂して、繋がらず、目隠しされたみたいに彷徨う。不安にまみれて。
そうして歩いていてもその先に何があるのかわからない。
もしかしたら本当に始めから何も無いのかもしれない。
全てにサヨナラできてしまいそうだ。。。
**
 
勝手ながらではあるが、簡素に自分を歌詞に投影するとこういった具合だ。
いつも思っている事ではあるが、また一つ色濃く思ってしまう出来事があったので、大好きなtoeの歌詞をお借りして書きたくなった。
たまにはこういうコラムがあってもいいだろう。たまたま今回は自分の手で全てを書くに至らなかった。
自分の好きなものと自分の思う事をリンクさせるというのも悪くない。想いはあくまでも本物なのだから、人の手を借りて組み立てても変わりはしない。
こういう何か一つ自分を救ってくれる創作物があるというのは良い。
 
うまく届くはずもなかったんだ。
初めから望んではいけなかったのだろう。
それでも、まだ少し望んでいる気もする。
次の不安を抱えて。
その先は無いんだ。その先は何だ。
 
 
 
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一生忘れられない場所。

 
先日、僕が七年程前に立ち上げたシェアハウスが解散した。
 
僕が大学3年生になった春から住み始めて5年、友達に運営を引き継いでもらってから2年が経っていた。
元々は1人の友人と別のところで、ルームシェアをしていて「どうせ引っ越すなら一軒家とか広いとかがいいな」と話してたのが始まり。
ただ、僕の中にはもう一つ思いがあって、それは母親、「オカンの為」だった。
 
 
当時、オカンはずっとガンを患って闘病していた。
それなのに、父親とは仲が悪く喧嘩ばかりして、実家の生活がストレスになっていた。
そして、僕は末っ子でオカンに可愛がられているのにも関わらず、高校卒業と同時に家を出た。
原因は、実家が嫌いだったこと。地元にも辟易していたこと。
とにかく外に出たかった。
その時からオカンは大好きだったが、それでも実家に地元に残りたいとは思えなかった。
 
高校生の時、一度だけ、
本当に親父が嫌いなら離婚しなよ。就職して、働いて、医療費も含めてオカン1人くらい養えるよ
 
そう、オカンに言ったことがある。
オカンは嬉しいと言いながらも
 
でも、その後オカンが死んだらどうするん?オカンは絶対あんたより先に死ぬよ。
 あんたはあんたのやりたい事やりな
 
そう、言われた。
強い人だなと、そして子供のことを、僕のことを心底考えてくれているんだな、と。
そう思った。
何度も「やっぱり地元の大学じゃダメ?」とか言っていた。
たまに帰省した時は「寂しい…」と言って、帰ろうとする僕の裾を掴むような人だった。
一緒に暮らしたかったのは明白だった。
だけど、オカンの言葉もあったからこそ、僕は家を出た。
 
 
そして、家を出てから4年後。
ルームシェアができる友達もでき、シェアハウスを立ち上げようというときに、オカンの事を話した。
シェアハウスだけど、できれば一緒に、オカンと住みたい、と。
友達の母親と一緒に住むなんて気をつかうし、普通は断るのかもしれないが、友達は快く承諾してくれた。
今でも、本当に感謝している。
 
 
ただ、皮肉なことにいざシェアハウスを立ちあげ、オカンが引っ越して2ヶ月も経たずに、オカンは逝ってしまった。
56歳だった。
早いな、とは思う。
それでも、僕はその2ヶ月があったからこそ、後悔しないで今も過ごせている。
もしも、家を出たままで、実家からオカンの危篤を知って、帰省して数日後に看取るなんてことがあったのなら、僕はずっとずっと引きずっていると思う。
最後の2ヶ月、本当に楽しかったなとも思う。
どんどん弱っていくオカンを見るのは辛かったけど、母親の看病というものの切なさもあったけど、やはりオカンといれたのは幸せだった。
あの時間があったからこそ、今の僕がある。
 
 
 
そんな思い入れのあるシェアハウス。
きっかけは「オカン」だった。
だけど、その後にも色んなことが起きた。
 
 
一緒にシェアハウスを立ち上げた友達が連れてきたT君。
これがまた、しょうもないギター小僧で世の中を何も知らず、金もろくになく上京してきて
「1ヶ月だけ住まわせてほしい!」と言ってから、
最終的に6年近く住んでいた。
僕から運営を引き継いだのもT君。
あれから、随分大人にもなったし、今となっては家族のようにも思える。
頻繁に遊んだりはしないけど、ずっと気がかりな、息子のような兄弟のような従兄弟のような、そんな存在。
あの家に来てくれてありがとう。
言葉にならない。
 
 
また、そのT君が遊びに連れてきたKは、僕のバンドメンバーになった。
僕が料理しながら何気なく曲を流していたら「nujabes好きなんですか!?」と始まり意気投合。
あっという間にスタジオに入って、初めは「サポートメンバーなら」ではじまったのに、スタジオ代も割り勘だし、終いには曲作りも参加するようになっていた。
ある日、僕が「……スタジオ代も割り勘でさ、、、曲作りも参加してさ……
予定も合わせてってなったら、それもう普通にメンバーじゃない?笑」と言ったら、
「……あ、本当だ。そうっすね!笑」と言って、気づいたらメンバーになっていた。
話は盛るし、つかなくていい余計な嘘つくし、調子いいとこすごいあるんだけど、Kと出会えてなかったらそれはそれで絶対に嫌な訳で、巡り合わせてくれたシェアハウスにも、T君にも感謝している。
やはり、言葉にならない。
ちなみに、KはTともバンドを組んでるため、というかそっちがメインなんだけど、僕が出た後だけどKもシェアハウスに住んでいた。
そして、その後僕と全く同じ最寄りの同じ大家さんの物件に住むっていう、なんとも面白い状況。
 
 
それからKz君。
同じ大学の一個上の先輩。
だけど、僕が高校卒業してから2年旅して遅れて入学したので、僕の高校の後輩なのに、大学では先輩という謎の関係性。
この子がまた映画オタクで面白い訳なんだけど、その子が今の奥さんと出会ったのはそのシェアハウスだったりする。
しかも、その奥さんというのが僕の飲み友達のKyさん。イニシャルKが多いな。
 
元々、Kz君は会社が忙しくほとんど家に帰れず、寂しいのもあるしということでシェアハウス2年目くらいに越してきた。
僕は以前から、ご近所だったKyさんとよく飲んでいたのだが、ある日そこに、帰宅したKz君と出会う。
ハチミツとクローバーという漫画を読んだことある方は、わかるかもしれないが、
僕は「人が恋におちる瞬間をはじめてみてしまった」のだった。
Kz君の一目惚れ。
そこから、半年を経て交際に、今年入籍した。
交際前はよく相談も受けていた。
絶対に似合うというか、上手くいくと思ってたからこそ、交際の報告を決まった時は本当に嬉しかった。
入籍の報告は、「おぉ、ついにか」くらいで驚きはしなかったけど、感慨深いものがあった。
2人は馴れ初めを、人にどう説明するのだろう。
「友達の友達で」で簡単にすむが、詳しく話せばなかなか、ややこしい説明にもなりそうだ。
あのシェアハウスがなければ、この2人は出会ってないのかと思うと、巡り合わせを強く感じる。
やはり、言葉にならない。
 
 
それから、Tkさん。
大学のサークルの先輩で、大学以降は「もう会うことはないだろうな」とか思ってた人。
だって、その時仲良くなかったもの笑
そんな人と、再会したのはTとKのバンドのレコーディングに遊びに行った時。
Tkさんは、TとKとバンドを組んでいたのだった。
会った瞬間、「……だよね!!笑」と笑い合った。
巡り合わせとは本当に面白いものだ。
一緒にはあんまり住んでないけど、何度も酒を飲んだ。
お互い母親を亡くしていたり、寂しがりだったり、似てるとこもあった。
人見知りだからこそ、距離が近くなるとちょっと子供っぽくて、指摘するとすぐむくれちゃったりもする。
信頼の現れなのか、身内にはわがままな内弁慶。
可愛いし、面倒臭い。
そんなTkさん。
飲んでて、よく「それはアキラだからじゃん!!」ってよく言われたっけ。
幾分ストレートな発言をする僕はTkさんからすると疎ましい、煙い存在だったと思う。ごめんね。
だけど、僕はまた飲みたいな。
うん。また、飲みたい。
 
 
 
 
 
それから、一緒にシェアハウスを立ち上げたMとKsちゃん。
Ksちゃん、今何してるのかな。
仲が悪いとかじゃないけど、正直な話疎遠になった。
「楽しそう!一緒に住みたい!」と言ってくれて、住んだけど東京の生活に馴染めなかったのか、僕らと合わなかったのか、大阪に帰ってしまった。
と、思ったら数年後に東京に引っ越したとかきいて、行ったり来たりしてた。
やりたいこと見つかったかな。幸せならそれでいいのだが。
facebookも更新してないようだけど、周りに囲まれている写真も見る感じでは楽しそうにやってるみたいで安心。
MとTとKsちゃんと最後に行った、ディズニーシー、面白かったなぁ。。。
僕はディズニー似合わないわ、TとMははしゃぐわで。
どこかでまた会えるといいな。
 
 
最後に、M。
もう、こいつは書ききれないので割愛する。
親友というには照れくさいし、少し違う気もする。
家族のような、兄弟のような、そんな存在に近いかもしれない。
 
一度、そいつが家を出た時に書いた文章があるのでいつかアップするかもしれない。
今は感謝だけ述べよう。
 
 
 
退去日に立ち会った時、がらんとした家を見ると、走馬灯のように色んなことを思い出した。
あの家に来た人のこと、起こったこと、経験したこと。
書ききれない日々。
遊びに来た人は、数知れない。
だけど、今疎遠になっている人も多い。
少し寂しくも、人間関係なんてそんなものなのかもしれない。
いくつか恋もした。ひどく辛い、それでいて忘れられない恋もした。
初めて、体温を感じるような瞬間。
胃に鉛が沈み込むような瞬間。
ひどく渇いた夜。
ひとり、何度もギターを爪弾いてた。
色んなことで涙も流した。
 
そして、それ以上に楽しかった思い出。
とにかく、笑った。飲んだ。
色んな事を語らった。喧嘩もした。
疎遠になった人もいるけど、それ以上に大好きな仲間もできた。
 
 
きっと、あの家がなければ、僕は全く違う人間になっていたと思う。
そもそも、「シェアハウスを借りる」ということ自体珍しい。
恐らく、大多数の人が経験できないことも多くしたと思う。
20代の多感な時期に、あの家で暮らせたのは、そして色んな人に出会えたのは貴重な財産だと思う。
 
あの家で過ごしたことで、他人と共同生活を送ることで、
幾分、人を思いやれるようになったかもしれない。
優しくなれたかもしれない。
人と、人との向き合い方を学んだかもしれない。
反面弱くなった気もする。
寂しがりにもなったかもしれない。
傲慢にもなったかもしれない。
良い部分も、悪い部分もきっとあるだろう。
 
ただ一つ言えるのは、人として大きくなったのは間違いないと思う。
あの家に、僕に、みんなに、関わってくれた全ての人と縁に感謝したい。
そんな風に思える人生を歩んでこれて、よかった。
 
「オカン、見てたかな。僕はとても恵まれていたよ」
 
 
 

積んでは崩れての繰り返し。

 

 

年の瀬に一昨年の初めに書いた文章を思い出した。

 
「昨年は、ひどく散漫な一年だった。」
 
 
その冒頭一文は自分への批判であり戒めのつもりだった。
昨年はどう生きて来れただろうか。
ひどく散漫という訳ではなかったとも思う。
が、しかし研鑽を詰めたかというとどうだろうとも思う。
 
 
新型コロナウィルスが猛威を奮う中、僕の生活は異様に変わる訳ではなく、しかしゆっくりと変化をもたらした。
川の流れのように上から下へと流れる訳ではなく、公園の砂場で子どもが落とした水のように様々な方へと流れる。
そんな感じ。
 
 
一つ目に、個人事業主から会社にした。
理由は多々あれど、コロナへの些細な僕の抵抗のようなもので、父親が取り扱っていた抗菌剤を継ぐ形で起業した。
僕の人生の中で憎悪の発端だった父親は、今はしょぼくれてただの爺さんだ。
それでもなお、僕が一緒に住みたくないと思う理由を持ち続けているのだから、いや十分にそのエネルギーは持っているのかもしれない。
その父親から借りた褌で起業をする気なんて更々なかったが、心変わりはあるものだ。
「おかげ」とは思っていないが、コロナ渦にならなければそんな事も起こり得なかっただろう。
自分のプライドを天秤にかけた時、「そんなこと言ってられねぇ、必要とした人がいるなら届けたい」と思ったのが率直な思い。
とはいえ、親父そのものも大企業の社長とかではなく、鳴かず飛ばずだった人だ。
商品そのものは良いとは思っているが、その展開は前途多難だ。。。
 
 
そして、その中で僕とパートナーがやはり特殊な仕事を生業としていることに、一般的な社会能力のなさに否応なく直面した。
 
今まで「モノを作る」仕事をしていたからこそ「モノを売る」とはさっぱりだ。
マーケティングとはなんだ?というレベル。
エクセルもろくに使えない。
数字に弱い。
勿論、アイデアは出せるし、デザインが作れたり、構成も考えたり、ある種一般的な会社が外部発注する「クリエイティブ」な面はフォローできていると思う。
しかしながら、「商売」はど素人な訳で、来年はもう少ししっかりしなければと猛省に至る。
起業した会社の9割は10年も満たずに倒産している。
起業してから気づいたが、「就職」という選択肢がなくなっているわけで、社会的にも代表としての責任もある。
一年でも多く、会社を存続できるように努力をしよう。
反面「知ったこっちゃねぇよ。やりたいことしか、やりたくないよ」という自分もいるので厄介なのだが。。。
まぁ、来年は資格の一つでもスキルの一つでも身につけようと思う。
 
 
2つ目に、バンドを少し動かすことができた。
久しぶりに曲も作り、スローペースではあるが動いている。
完全に止まってしまうと水と同じで腐ってしまうわけで。
生きてさえいればいいとも思える。
最近、MINATOは生き物のようだなと思う。
仕事/生活/時間/金/人間関係、etc...メンバー個々を取り巻く環境の中で、時に積極的に、時に怠惰に動いている。
僕を含めメンバー誰かという話でもない。
バンドそのものの動きがそんなように感じる。
今のバンドはどうだろう。久しぶりにライブをやったら爆発しそうな気もするし、てんでダメな気もする。
個人的には7:3くらいかな。
今はその蓋を開けるのが楽しみだ。
もうこの時点で「次のライブは成功させる!」とか、僕の意思とかそういうのじゃない。
一種の集合体。まぁ、大人が3人集まっているわけだから、それもそうか。
不思議な拠り所だ。
 
 
3つ目に、映画を少し撮った。
「形にしたい」と言ってたことを少しだけ実行できたと思える。
しかしながら、やればやるほど自分の能力のなさに辟易とする。
そりゃそうだろう。やらなきゃわからないんだから。
そうやって挫折して、辞めたいなと思いながら、喉元過ぎれば「こういうの作ったら面白そう」と思ってしまうのだから救いようがない。
「業」のようなモノだと受け入れるしかない。
 
僕の生き方に、憧れというにはおこがましいが、興味を持ってくれる人がいる。
音楽・映像・料理なんでもいい。
大変嬉しくも、煩わしい、「私も/僕もやってみたい」という言葉。
そんな気持ちに肯定的な立場で言えば、「どんどんやりな!楽しいよ!」とも言う。
これは本心から思う。大変嬉しい。
否定的な立場で言えば「やれるもんならやってみろ」とも思う。
これもまた本心だろう。
 
「何かしたい」「やりたい」「クリエイティブな事がしたい」
そういう思いは大歓迎。素直に嬉しい。
さて、そこから行動に移す人の少なさよ。継続できる人の少なさよ。
やる前から、自分の理想を作っては手を出さない。自分には無理だと諦める。
何かに理由をつけてやらない。
下手くそでダサい自分を知りたくなく、「可能性」だけに酔っている。
 
 
「本当はやりたいんだけど」
本当ってなんだ。
やりたいならやればいい。ただ、それだけの事。
 
 
僕がそういう風に落胆・嘲笑してきた人達に僕自身なっていたのかもしれない。
冷静に考えて映画を撮ったのは4年ぶりだった。
今年はモノを作った。そして己が能力のなさに愕然とした。
この業のスピードを早めたいと思う。
僕は無力だし、無能だ。
何度も何度も作っては失敗して、行動しては自信無くなって、歩けなくなって、その繰り返し。
最近は心の底から「才能」が欲しいと思う。
 
でも、もしかしたら才能ある人達は、その業を誰よりも多く経験しているのかもしれない。
とはいえ、誰がみても天賦の才を持っている人もいるわけで。
天は二物も三物も与えているのが事実じゃないか。
悔しいけれども、落胆して絶望するのだけれども、それでも業から抜け出せそうにない。
そうであれば業と共に回り続けるしかない。
くるくるくるくると。
 
「吐くまで踊る。悪魔と踊る。」
銀杏BOYZが無性に聴きたくなってしまう。
才能に溢れる峯田さんの楽曲に結びつけるのは烏滸がましいな。
大変失礼した。
 
 
2020年という一年を過ごして、久しぶりにフラットな感覚になっている。
この先が一才見えない。
来年は何かできそう気もするし、あえなく腐っている気もする。
あわよくば死んでいたとしても、それはそれとしていいとも思う。
反面強く、2022年を胸はって迎えたいとも思う。
己が無力さを認めた上で、初心に戻れた。
良くも悪くも、迷っている自分を受け入れることができた。
所詮、お前なんて「迷子だ」、と。
 
「とにかく、やれ」
2021年の自分にはそう言いたい。
積んでは崩れての繰り返し。
劇的な成長なんてできないのだから、無様な姿を笑われても仕方がない。
いい歳して他人の目にびびってんじゃないよ。
 

「オカンが逝って6年目の今日、思うこと。」

「オカンが逝って6年目の今日、思うこと。」

 

「あぁ、今日が命日か」

そう気付くのに大分時間がかかった。

他の事に意識がいってしまってるのもあるが、その気づきの遅さに寂しさもあれば安堵もする。

 

 

6年前、最愛の母が他界した。

僕が幼い頃に乳癌を患い、治療の後健康な日々もあったがやはり再発し、最後は全身に転移して逝った。

弱音を吐かない、強い強い母だった。

 

母というには少し違和感があるので、やはり呼んでたようにオカンと書く事にする。

その強い強いオカンは、最後の最後まで家族の心配をしていた。

「あんた仕事は?学校は?」そんな風に僕や姉に声をかけた。

最後の言葉は「昨日より、しんどいわ。なんでやろ?」だった。

今となっては笑ってしまいそうな言葉だが、オカンは最後の最後まで戦っていて、到底死ぬなんて考えていなかったんだと思う。

「そりゃ、そうよ!だってオカン死んでまうんやもん!」とツっこみたくなってしまう。

後に父親から聞いた話だが、お医者さん曰く「到底生きてる人の身体ではなかった」そうだ。

ほぼ心臓は機能せず、なぜ生きてるかわからない状態で僕らと会話をしていたらしい。

想像もつかない気力でオカンは生きていたのだろう。

誇りに思う。

 

 

 

今、新型コロナウィルスで世の中は大変な事になっている。

こんなご時世でオカンが生きてたらどうしてだろう。

きっと、色んな事を言われるだろう。

 

「とにかく家におるまっし!」(金沢弁でいなさい!みたいな事)

「どこにも行ったらダメねんよ!」

「仕事大丈夫なん?」

「友達の◯◯も大丈夫?」

「オカン、マスクたっくさん作るし友達にも配ってあげて!」

 

きっと、オカンはそう言うだろう。

おしゃべりで、天然で、よく怒ってはよく泣き、いつも僕らを心配してくれる人だった。

 

コロナの影響で、僕の仕事はなくなった。

情けない話だが、フリーランスの映像制作で日々なんとか生活していたような人間は、こう言う時脆いものだ。

それでも何かできる事ないかと、模索した中で一つだけ世の中の役に立てそうな事を見つけた。

上手くいくかわからない。

ただでさえお金のない中で身銭を切って、起業するなんて無茶だとも思う。

今まで、「映像を作る」ということしかしてこなかった人間だ。

大学だってその専門。

一般常識や経済の事なんて恥ずかしいくらい知らない。

少数派だと思う。

正直、滅茶苦茶怖い。

それでも、何もしないでいるよりはマシだと思う。

 

きっと、オカンが生きてたら、

「やらんかいね!」(金沢弁でやりなさい!)

と言ってくれると思う。

優しい人だった。

 

 

今の段階で、起業もできない可能性もある。

問題が山積みで果てしない。

たくさんある歯車が上手くハマってくれる事を切に願う。

 

 

オカン、今年の七回忌は家族で会うことすらできなかったよ。

でも腐らずに頑張るからさ、

上手くいくように巡り合わせてください。

今日、親父と姉から聞いたよ。

墓参りで偶然同じタイミングで会ったって。

驚いてたよ。「きっとオカンの仕業やね」って。

 

そんな風に巡り合わせてください。

上手くいきますよう。。。

『新年』

『新年』
 
昨年は、ひどく散漫な一年だった。
珍しく落ち込んだ気分で新年を迎えた。
 
 
フリーランスになって3年目。
有難いことに仕事は増えて、お世話になった人の手伝い等を除けば、アルバイトは全くやらなくなった。
手に職、というものを実感する一年だったかもしれない。
今までの、時給1000円だ2000円だという感覚で働かなくなった。
お世話になっている尊敬するディレクターさんから、何度も嬉しい言葉も貰えた。
「対価に見合ったそれだけの能力がある」そう認められた気がした。
 
 
帰省した際に、1日あたりのギャラの話を親父にすると「お前、そんなに貰っとるんか!!」と驚かれた。
勿論、企業に属して保証がついてる訳でもないし、いつ仕事がこなくなるかもしれないというリスクを考えれば妥当な値段ではある。それ以前に、この仕事では相場な値段な訳で、別に僕自身が特別すごい訳ではない。
なんなら業界の中ではまだまだ安い方だろう。
そして、勿論そういった仕事が毎日ある訳ではない。
ただ、やはり僕もその金額に慣れるまでは時間がかかった。
今、「見積もりを出して」と言われて、「まぁ、これくらいは貰わないと困るなぁ」という昔の自分にはなかった金銭感覚が自然に身についている事の方が驚く。
フリーターに毛が生えたようなフリーランスから、やっと胸はって「フリーランスです」と言えるようになったのかもしれない。
簡単な話、前よりも少しだけ稼げるようになったのかもしれない。
なんだ、いい一年だったじゃないか。
仕事の面だけ見れば、そう思えるような気もするから怖い。
それに気づかなかったのが、つい最近までの事だ。
 
昨年の9月、一年間やっていた大口のレギュラーの仕事がなくなった。収入の大多数を占めていた。
それは僕のせいなのか、取引先の問題なのか、予算の問題なのかわからない。
全部なような気もするけど、原因はわからない。事実、仕事はなくなった。
単発で頂ける仕事をこなしながら、10月末になった。
その時の11月のスケジュールは白紙にだった。
全くの白紙。
いよいよ、やばいかもしれない。
久しぶりにバイトをしなくてはいけない、そう思った。
だけど、いざ11月に入るとバタバタと仕事が入って、結果いつもと同じくらい稼げた。
こういう仕事だから上がり下がりはある。それは致し方無い。
だけど、何がマズかったかというと、僕はその時、自分で自分の身の振り方を考えられなくなっていた。
 
 
就職をするのか、このまま踏ん張って仕事が貰えるようにスキルを磨くのか、どう生きて何がしたいかが明確にわからなくなってしまった。
就職のための活動もせず、生活の基盤となるバイトを探すわけでもなく、
その時の僕は、「とりあえず春までは、日銭稼いでのんびりしよう」くらいに考えていた。
随分と甘く、ひどく散漫で怠惰な思考回路だった。
友達と話したおかげで、そんな悠長な考えは無くなったが、依然として「やりたい事」は不明瞭なままだった。
有難いことに仕事は頂けてたおかげで、金銭の心配は無くなったが、いざその時が来た時にどういう対処もできない状態だった。
 
足元が割れた流氷の上で、立ちすくんでいた。
足元がしっかりした岸に飛び移ることも、同じように流れている流氷に移ることも、何もできずただ漂っていた。
自分で思うのもなんだが、思い立ったらすぐに行動できる方だ。
それだけに、行動ができない。どう動いていいかわからない。
自分がどうなりたいと言う目標が見えないのは、ひどく不安でいて情けなかった。
 
原因の一つはわかっている。
事実上、僕の心の要になっているMINATOが活動休止になっている事だ。
メンバーが多忙になり、スタジオもろくに入れていない。
だけど、それは「時間のある中でやろう」と組んだバンドの手前、仕方がないとは思っていた。
その、「仕方がない」が僕の目をどんどん曇らせて言った。
 
またもう一つの原因は同棲だった。
有難いことに僕なんかと一緒に暮らそうなんていう奇特な人がいる。
そして、自分の時間はやはり無くなってしまう。
元来より料理好きな性格な為、料理担当は自分になる。普段の食事も変わる。一人だと簡単に済ませてた食事も、ちゃんと作るようになる。ともあれば買い物も多くなる。家でも飲む頻度も多くなった。
一緒にゲームなんかもするようになったし、出かけたりもする。
暇があればギターを触ってたのが、触らなくなる。映画も本も触れる時間が減って行く。
それでも当たり前だけど、幸せでないわけがなく、ゆっくりと心が肥えていった。余分な脂肪がべったりと心にまとわりついて、どんどん動きが鈍くなっていく。パートナーを言い訳にするなんて愚の骨頂にも思うが、事実でもあるから怖い。そうして、段々「何がやりたい」かわからなくなっていった。「誰かといる」だけで人は肯定される。それでいて幸福を感じる。逆を言えば寂しくないわけだ。恋愛はなんてお手軽で充実感を得られるものだと感心すると同時に、気持ち悪さも感じる。あぁ、そうか。だからみんな恋愛をするんだな、と改めて思う。そういう側面だけ見れば吐き気がする。
 
 
やりたいことができない、仕事は浮き沈みあれど、食っていけてる。
病める事はあれど、パートナーもいて、楽しい時間を過ごせる友達もいて、日々の焦燥は限りなく薄められていた。
そのため、今年を振り返った時に、「まぁ、幾分働いたし良い年だったのかな」とすら思えた。
だけど、どうにも腑に落ちない気がしてならなかった。
なんかおかしい、と。
 
去年に書いた自分の気持ちを読み直してみた。
そこには「形にしたい」と書かれていた。
 
『日々、少しずつ静かに、時に劇的に環境は変化する。
 その中で、自分がどれだけ自分に甘えずにやれるか。
 緩みきった線を張り直したい。
 そんな一年にしたい。』
 
そんな風に書いていた。
その真逆を行った一年だった。
甘えた。仕事に。私生活に。
緩みきった線はさらに緩んだ。
望んだ一年ではなかった。
 
 
仕事は順調だったかもしれない。
その一点で、僕は色んな事に目を瞑って何の努力もしてなかった。
仕事が順調。そんなのは当たり前なんだ。
ましてやフリーランスで働いてる人間だ。
常に上向きじゃなくてどうする。
今年は本当に自分の活力の無さに幻滅した。
 
もっとやれよ。
酒ばっか飲んでんじゃねぇよ。
日常が欲しくて、今の仕事についたわけじゃないだろう。
こんなにも弱い人間だったのかよ。
MINATO ができないことを言い訳に、腐ってるんじゃねぇよ。
やれることいっぱいあんだろうが。なければ探せよ。
いつから理屈並べて動かなくなった。
人や環境を言い訳にするなよ。
 
動けてないのは、事実「自分」だろ。。。
 
僕はいつからか、僕自身が遠ざけて来た人達になろうとしていた。
やりたいことは言うくせに何も行動を起こせない人。
続けられない人。
今の自分を変えたいくせにくだらない言い訳で動かない人。
なりたい自分を見失って日々を消費する人。
 
 
汗水垂らして稼いだ金で、自分自身を肥えさせて何の意味があるんだろう。
消費するだけの日々で何が生まれるんだ。 
今年はもっとがむしゃらに生きていきたい。
学生の頃、貧乏でどうしようもなかったあの頃の方が、よほど前のめりだっただろう。
MINATOが活動再開できた時に、フルパワーで動ける感性を身につけていたい。
仕事は仕事。人は人。自分の道は自分の道。
 
大人になったからこそ、できる遊びもあれば過ごせる時間もある。
それを捨てたいわけじゃない。
メリハリをつけると言うこと。
環境を自分で変えると言うこと。
今年こそ何かするとは言わない。
そんな簡単にできるほどの力が今の自分にないのはわかっている。
エネルギーを取り戻して、無駄な脂を削いで、走れるように。
今年の末に、「悪くなかった」と言えるように。
自分に幻滅するなんてこりごりだ。
 
全てに満足するな。
疑え。目を凝らせ。
心を砥げ。
 

『屑の戯言とプライド』

 
『屑の戯論とプライド』
 
先日、誕生日を迎えた。
最近は自分の誕生日に死にたくなる。
 
基本的には僕は自分が好きではない。
そいつが生まれた日なんて祝う価値もない気がする。
祝われて嬉しくない訳ではないが、嬉しいよりも申し訳なさが勝つ。
むしろ「おかげさまでまた一年無事過ごせました」と感謝する日に近い。
 
死にたいというのもどちらかと言えば「もう十分生きた」という感覚。
何かがうまくいかなくてとか、苦しくて苦しくてとか、死にそうなほど辛いとかではない。
勿論、常日頃大勢の人が気にも止めない事で病むし、理由もなく落ちるし、生きることそのものは大変楽ではないと思っている。
むしろ、そういうものが常にあるから、とても楽しい時に「このまま死なせて欲しい」なんて思ってしまう。
このまま、続く人生を考えると気が遠くなる。
ライブの帰り道、楽しく飲んだ帰り道、好きな人と一緒に眠る時、「どうかこのまま朝になって冷たくなっていたい」そう願う時がよくある。
だから、誕生日に生まれた日に死ぬなんてキリが良くていいじゃないか、と。
仮に僕を悼んでくれる人がいるのなら、誕生日と命日に一度ずつ思い出すなんて煩わしいことさせたくない。
 
 
人間はいつか死ぬ。
当たり前のこと。
到底死ぬとは思えてならなかったオカンが死んだ時に、実感した。
当たり前のこと。
 
最近はよく「生と死」について考える。
僕自身は、死についてそこまでマイナスな感情がない。
例えば、自死について言えば、負けでもないし、悪いことでもないし、後ろめたいことでも、ましてや逃げでもないと思っている。
ざっくり言えばただの事象であって、それがどう作用するかは千差万別だ。
人が抱える、苦悩や葛藤や不幸はそれぞれ。
比べることもできない。
なのに人は比べる。
 
「それくらいで病んでんじゃねぇ、甘えるな」
「自分だったら、そんな現実受け止めきれない。死んでしまうな」
 
僕だって、そう思う。
無意識に自分の不幸や他人の不幸を比べるし、「なんで自分だけ」と世に憎悪抱くこともあった。
いや、それは未だに持ってるかもしれない。
人を妬ましくも思うし、愚かだとも思うし、それが鏡のように自分に跳ね返って苦しくなる。
いつだって、相反する感情が湧く。
 
「あいつは口だけで、結局何も変わらない。自分の不幸や環境をダシにして甘えてるだけで、ずっとあのまま生きてくんだ」
「色んなことを抱えた上で頑張ってる。俺には到底わからない苦しみの中で戦ってるんだろう」
「死にたい奴は死ねばいい。」
「なんで、あいつを少しでも楽にさせてやれなかったのか」
「死ぬ事でどれだけ迷惑がかかり、人を悲しませるかわかった上で死ぬなんてバカな奴だ」
「よかったじゃん、死ねて。」
 
どれも本音だろう。
どこまでも、人を理解することなんて不可能だ。
人の苦しみ、痛みはその人にはしかわからない。
どれだけ寄り添っても、境遇や環境が似ていたとしても、その人ではないんだ。
感情はその人のものでしかない。
興味がある人は、2004年の映画『海を飛ぶ夢』を観て頂きたい。
自死についての価値観は幾分変わるように思える。
 
 
 
「死んだらダメだ」とどうして言えるのだろうか。
その人の苦しみも知らないで。
自死は選択の1つであり、その人の人生の一部である。
 
「死んでほしくない」と願う人の希望を、どうして無下にできようか。
その人の悲しみも知らないで。
大事な人を失うことほど、人生において辛いことはない。
 
 
死は誰も知らない。
未知のものを人は恐怖し不安になる。
その中で、色々な死を人は描き、歌い、踊り、伝えてきた。
不思議な事に、死に対しての不安や恐怖というものは当たり前のように認識されているのに、
不老不死もまた「望むべきことではない事」不毛であり切なく哀れなものとして認識されているように思える。
 
生きることが素晴らしいというのであれば、それは死ぬからだ。
 
 
僕が「死にたい」という。
人は躍起になって「そんなことを言うな!」「死んで何になる!」と言う。
別に悪いことをしたわけではないのに。
飛び込み自殺等で、交通機関に迷惑をかけるわけでも、警察にお世話になるわけでもない。
ただ、思う「死にたい」に対して多くの人が嫌悪する。
純粋に僕の死を望んでいないという事には大変嬉しく思う。
周りの人は大事にしたいと常日頃思うし裏切ることなどしたくない。
それでも思ってしまうのだ。
 
自分がいかに欲張りで我儘だと言うことはわかっている。
飢えることもなく、特に難病奇病にかかるわけでもなく、五体満足に生きている。
愛する人達がいて、好きな音楽や仕事もできている。
それでも、「死にたい」と思ってしまうのは渇くからだ。
足りないんだ。
何かが。
あれもしたい、これもしたい。あぁなりたい、こうはなりたくはない。
自分の人生に我慢がならない時がある。
鬱の人は完璧主義の気合があると言うが、そんな大したものではない。
自分なんぞが何ができる、と。屑だと思う。僕は鬱ではない。
身の程知らずの強欲者なだけだ。
 
 
だからこそ、僕はいつ死んでもいいし「死にたい」とも思う。
自分の歩んだ道に反省はあれど、後悔はない。屑の割には良くやってきた方だ。
特に十代の頃、「生き急いでいる」と言われることがあった。
そりゃそうだ、いつ死ぬかわからないんだから。
当時よりは、時間の流れを大きく捉えられるようにはなったが、「明日死んでもいい」と言うのは変わらない。
年齢とともに減っていくが、それでも夢・目標はまだまだある。
少しずつではあるが、迎えてる気がするからこそ、いつ死んでもいい。
夢半ばで死んだって諦められる。屑の割にはようやった。
いよいよ、進めなくなっても諦められる。屑の割にはようやった。
大事な人を遺してしまう。遅いか早いだけ。屑の割にはようやった。
 
 
僕は自分が好きではない。
だけど、生きてきて選択してきた僕の人生を否定はしない。
仮に僕が自死を選んだら、それはそれは迷惑をかけてしまうだろう。
だけど、その「自死」という選択そのものを批判される筋合いはない。
僕が定食屋に一緒に連れ立って、生姜焼きを頼もうが鯖味噌定食を頼もうが誰も批判しないだろう。
そこで、くさや定食なるものがあって頼んだら嫌な顔をされるだろう。
それは本当に申し訳ない。
でも、メニューにあるんです。選択肢にあります。死は。
 
 
 
断っておくと、これは自殺宣告でもなんでもない。
生きていく。
「死にたい」と思えるくらいに、生きる。
屑の割にはようやってる。
それでも、本当に死が近づくと「やっぱり生きたい」と思うんだろうな。
屑やから。
 

 Akira