僕にとってのHi-STANDARD.
僕にとってのHi-STANDARD.
著名人、有名人の訃報は幾度となく目にする。
その度に、視界がグラッとするような、胃に鉛の落ちたような気分になる。
それでも、先日の訃報は自分にとって受け入れるには時間がかかった。
Hi-STANDARD恒岡章さんの訃報。
声にならなかった。
その日、一日どこか上の空で
「恒岡さんが亡くなった…」「Hi-STANDARDのドラムが…」と頭に靄がかかったように過ごしていた。
そうは言っても、僕はツネさんとなんの関わりもない。1ファンでしかない。
実際の関係者や友人・家族・何より健さんや難波さんの悲しみは計り知れない。
それ故に、特に涙を流すわけでもなく、ふらふらと1日を過ごすだけだった。
そんなもんだと思った。
今でもハイスタは聴く。勿論聞く。大好きだ。間違いなく僕の原点だと思う。
だけどパンクやメロコアバンドやってるわけでもないし、楽器もドラムを叩いてるわけではない。
それにそもそも世代じゃない。本当のエアジャム世代は僕より10歳以上年上の方が多い。
10代の頃に比べたら、好きな音楽の幅も広がったし、最近のキッズのノリについていけないおじさんだと思う。
今は大きなフェスがあっても、ハイスタ目当てで行くこともないだろうし、新譜が出ても「うぉおおおお!!」とはならないだろう。
そんなファン。
一線を引いたファン。
ウチのが帰宅した時も、すぐに「ハイスタのドラムの恒岡さんが亡くなった」と話した。
「え~……」なんて、言われながら、ごくごく淡々と
「え…病気…?」
「いや……死因は発表されてないんだって…確認中だって…」
「え…?じゃあ…」
「ううん…わかんないけどね…そういう想像はしちゃうけど…」
「そうだね…詳細が分かりづらい事故とか火もしれないしね…」
「そうね……そっかぁ……」
そんな会話をした。
数分後には二人で夕飯の買い物にも出かけた。
落胆はしても、狼狽えたり、泣いたりしない。
そんなもんだと思った。
だけど、その日の晩酌中に、また少しだけ恒岡さんの話題になった。
なったというか僕が話したんだろう。
経緯は覚えていない。
気づいた時には僕は嗚咽を漏らして、ボロボロと泣いていた。
自分でも驚いた。
ただ一言だけ、自分で言った言葉で、堰を切ったように泣いたことは覚えている。
「だってHi-STANDARDなんだよ…」
僕の中でそれが全てだったんだと、後から自覚した。
色んな思い出が溢れて、ただただ泣いた。
高校生の頃、勝手に姉のCDを漁ってて、初めてMAKING THE ROADを聴いた時の衝撃。
家には他のアルバムはないから、とTSUTAYAまで自転車一時間かけて漕いで借りに行ったこと。
その当時は活休状態で、「二度とライブを観られないかもしれない」と後から知った時のこと。
初めてYoutubeでAIRJAM2000の映像を見た時のこと。
ENDLESS TRIPのMV観ながら、「カッケー!ツアーってこんな感じなのかな!」と興奮してたこと。
「一生で一回でいいからハイスタを観てみたい」と切に願ったこと。
登下校の日々、田舎道を自転車で走りながら、いっつも聴いていた時のこと。
学校の友達は誰も聴いてなくて共有する友達がいなかったこと。
初めてエレキギターでStarry Nightを弾いた時のこと。
STAYGOLDは難しくて中々弾けなかったこと。
震災でハイスタが復活した時のこと。
一人で夜行バスで仙台まで行って、AIJAM2012で初めて生でハイスタを観れた時のこと。
人生で初めて、そこでクラウドサーフした時のこと。
曲はMaximum Overdriveだったこと。
お風呂上がりにSaturday Night流してハイテンションで踊り狂って、ウチのに苦笑いされたこと。
去年のフジロック、YOUR SONG IS GOODで、「ドラム、ツネさんだよ!ハイスタのツネさん!」とウチのに話してたこと。
大人になっても、なんだかんだ聴くことが多かったこと。
ハイスタに出会ってなければ音楽もやってないし、自分の世界が広がらなかったこと。
自覚していなかっただけで本当に自分の原点だったこと。
そんな事が、
書ききれない思い出や気持ちが、頭の中で走馬灯のように流れた。
「だってHi-STANDARDなんだよ」
「ハイスタなんだよ」
「ハイスタのツネさんだよ…」
そう言いながら、ぐちゃぐちゃに泣いた。
大の大人が鼻水垂らしながらわんわん泣くもんだから、ウチのも困っただろう。
それでも、ゴメンと泣きじゃくる僕に、「うん…うん…」とただ横にいてくれた。
ウチのがいなかったら泣けてなかったかもしれない。
話せてよかった。思い出せてよかった。気づけてよかった。泣く事ができてよかった。
今はそう思う。
失って気づく存在のデカさ。
ただただ、味わう喪失感。それを自覚できなくて一日ふわふわしてたんだろうと。
悲しい。
寂しい。
結局それに尽きる。
後日、PIZZA OF DEATHからの健さんと難波さんの声明を読んでから、少しだけ感情が落ち着いた。
落ち着いたというか冷静になった。
上記にも書いたが、関係者や友人・家族・何より健さんや難波さんが一番辛いに決まってる。
どこから目線だよ、と思うけど、ファンとして心配にもなる。
健やかであってほしいと願う。
ハイスタが続くことに対しては、僕は賛否も何もない。
不思議と「そうなんだ。そっか」と思っただけだった。
淡々と良いとも悪いとも思わずに、そう思った。
きっと、それはあくまで僕の憧れたハイスタは、あの3人だから。
これからのハイスタを受け入れないとか、これからは「ハイスタじゃない」とかじゃなくて、
またそれはそれとして感じるんだろうな、と。
いつかライブにも行きたい。
最近、人生は長いんだか短いんだかわからなくなってきた。
今までは短いと感じていたし、いつ死んでもいいようにと生きてきた。
それが、パートナーができて、「個」が薄れて、暮らしが定着してくると、ずいぶん先は長いようにも思える。
それでも、やりたいこと、やってみたいことは無くならないし、限りある人生だから、
できる限りやるだけやって、その途中で死にたいと思う。
また、喪失感からのそういった気持ちは、特に強いように感じる。
今回の訃報を知って、しばらくして、すごくメンバーの顔が見たくなったし、音を出したいと思った。
なんだか皮肉なものだな、と思った。
きっと、こんな喪失感を味わうことはないようにも思える。
だけど、やっぱり自覚してないだけで、
自分の人生に多大なる影響を与えた人達がきっとたくさんいるんだろう。
早めに少しでも自覚して〜なんて思うが、
いややっぱりそんなことは不可能で、理不尽にも感じる訃報のニュースを聴いて愕然とする未来しかないんだろう。
まだハイスタは聴けてない。
色んな感情がぐちゃぐちゃになってしまいそうで怖いから。
自分の中で自然と聴きたいと思う時がきっとくるから、それまでは大人しく待ってる。
その時が楽しみだな。
大好きなバンドだから。
最後に、1ファンとして、
恒岡章さん、この世に素晴らしい音楽を残してくれて。本当にありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。
音楽と自分の投影 toeとグッドバイ
また次の不安か? ...Humm
A disruption and blinder ...Humm
その先は無いんだ ...Humm
うまく届かないんだ ...Humm
また次の不安か? ...Humm
A disruption and blinder ...Humm
その先は何だ? ...Humm
一生忘れられない場所。
積んでは崩れての繰り返し。
年の瀬に一昨年の初めに書いた文章を思い出した。
「オカンが逝って6年目の今日、思うこと。」
「オカンが逝って6年目の今日、思うこと。」
「あぁ、今日が命日か」
そう気付くのに大分時間がかかった。
他の事に意識がいってしまってるのもあるが、その気づきの遅さに寂しさもあれば安堵もする。
6年前、最愛の母が他界した。
僕が幼い頃に乳癌を患い、治療の後健康な日々もあったがやはり再発し、最後は全身に転移して逝った。
弱音を吐かない、強い強い母だった。
母というには少し違和感があるので、やはり呼んでたようにオカンと書く事にする。
その強い強いオカンは、最後の最後まで家族の心配をしていた。
「あんた仕事は?学校は?」そんな風に僕や姉に声をかけた。
最後の言葉は「昨日より、しんどいわ。なんでやろ?」だった。
今となっては笑ってしまいそうな言葉だが、オカンは最後の最後まで戦っていて、到底死ぬなんて考えていなかったんだと思う。
「そりゃ、そうよ!だってオカン死んでまうんやもん!」とツっこみたくなってしまう。
後に父親から聞いた話だが、お医者さん曰く「到底生きてる人の身体ではなかった」そうだ。
ほぼ心臓は機能せず、なぜ生きてるかわからない状態で僕らと会話をしていたらしい。
想像もつかない気力でオカンは生きていたのだろう。
誇りに思う。
今、新型コロナウィルスで世の中は大変な事になっている。
こんなご時世でオカンが生きてたらどうしてだろう。
きっと、色んな事を言われるだろう。
「とにかく家におるまっし!」(金沢弁でいなさい!みたいな事)
「どこにも行ったらダメねんよ!」
「仕事大丈夫なん?」
「友達の◯◯も大丈夫?」
「オカン、マスクたっくさん作るし友達にも配ってあげて!」
きっと、オカンはそう言うだろう。
おしゃべりで、天然で、よく怒ってはよく泣き、いつも僕らを心配してくれる人だった。
コロナの影響で、僕の仕事はなくなった。
情けない話だが、フリーランスの映像制作で日々なんとか生活していたような人間は、こう言う時脆いものだ。
それでも何かできる事ないかと、模索した中で一つだけ世の中の役に立てそうな事を見つけた。
上手くいくかわからない。
ただでさえお金のない中で身銭を切って、起業するなんて無茶だとも思う。
今まで、「映像を作る」ということしかしてこなかった人間だ。
大学だってその専門。
一般常識や経済の事なんて恥ずかしいくらい知らない。
少数派だと思う。
正直、滅茶苦茶怖い。
それでも、何もしないでいるよりはマシだと思う。
きっと、オカンが生きてたら、
「やらんかいね!」(金沢弁でやりなさい!)
と言ってくれると思う。
優しい人だった。
今の段階で、起業もできない可能性もある。
問題が山積みで果てしない。
たくさんある歯車が上手くハマってくれる事を切に願う。
オカン、今年の七回忌は家族で会うことすらできなかったよ。
でも腐らずに頑張るからさ、
上手くいくように巡り合わせてください。
今日、親父と姉から聞いたよ。
墓参りで偶然同じタイミングで会ったって。
驚いてたよ。「きっとオカンの仕業やね」って。
そんな風に巡り合わせてください。
上手くいきますよう。。。
『新年』
その中で、自分がどれだけ自分に甘えずにやれるか。
緩みきった線を張り直したい。
そんな一年にしたい。』