MINATO_Akiraのブログ

ポストロック・バンド MINATOのギターAkiraのブログ。

『屑の戯言とプライド』

 
『屑の戯論とプライド』
 
先日、誕生日を迎えた。
最近は自分の誕生日に死にたくなる。
 
基本的には僕は自分が好きではない。
そいつが生まれた日なんて祝う価値もない気がする。
祝われて嬉しくない訳ではないが、嬉しいよりも申し訳なさが勝つ。
むしろ「おかげさまでまた一年無事過ごせました」と感謝する日に近い。
 
死にたいというのもどちらかと言えば「もう十分生きた」という感覚。
何かがうまくいかなくてとか、苦しくて苦しくてとか、死にそうなほど辛いとかではない。
勿論、常日頃大勢の人が気にも止めない事で病むし、理由もなく落ちるし、生きることそのものは大変楽ではないと思っている。
むしろ、そういうものが常にあるから、とても楽しい時に「このまま死なせて欲しい」なんて思ってしまう。
このまま、続く人生を考えると気が遠くなる。
ライブの帰り道、楽しく飲んだ帰り道、好きな人と一緒に眠る時、「どうかこのまま朝になって冷たくなっていたい」そう願う時がよくある。
だから、誕生日に生まれた日に死ぬなんてキリが良くていいじゃないか、と。
仮に僕を悼んでくれる人がいるのなら、誕生日と命日に一度ずつ思い出すなんて煩わしいことさせたくない。
 
 
人間はいつか死ぬ。
当たり前のこと。
到底死ぬとは思えてならなかったオカンが死んだ時に、実感した。
当たり前のこと。
 
最近はよく「生と死」について考える。
僕自身は、死についてそこまでマイナスな感情がない。
例えば、自死について言えば、負けでもないし、悪いことでもないし、後ろめたいことでも、ましてや逃げでもないと思っている。
ざっくり言えばただの事象であって、それがどう作用するかは千差万別だ。
人が抱える、苦悩や葛藤や不幸はそれぞれ。
比べることもできない。
なのに人は比べる。
 
「それくらいで病んでんじゃねぇ、甘えるな」
「自分だったら、そんな現実受け止めきれない。死んでしまうな」
 
僕だって、そう思う。
無意識に自分の不幸や他人の不幸を比べるし、「なんで自分だけ」と世に憎悪抱くこともあった。
いや、それは未だに持ってるかもしれない。
人を妬ましくも思うし、愚かだとも思うし、それが鏡のように自分に跳ね返って苦しくなる。
いつだって、相反する感情が湧く。
 
「あいつは口だけで、結局何も変わらない。自分の不幸や環境をダシにして甘えてるだけで、ずっとあのまま生きてくんだ」
「色んなことを抱えた上で頑張ってる。俺には到底わからない苦しみの中で戦ってるんだろう」
「死にたい奴は死ねばいい。」
「なんで、あいつを少しでも楽にさせてやれなかったのか」
「死ぬ事でどれだけ迷惑がかかり、人を悲しませるかわかった上で死ぬなんてバカな奴だ」
「よかったじゃん、死ねて。」
 
どれも本音だろう。
どこまでも、人を理解することなんて不可能だ。
人の苦しみ、痛みはその人にはしかわからない。
どれだけ寄り添っても、境遇や環境が似ていたとしても、その人ではないんだ。
感情はその人のものでしかない。
興味がある人は、2004年の映画『海を飛ぶ夢』を観て頂きたい。
自死についての価値観は幾分変わるように思える。
 
 
 
「死んだらダメだ」とどうして言えるのだろうか。
その人の苦しみも知らないで。
自死は選択の1つであり、その人の人生の一部である。
 
「死んでほしくない」と願う人の希望を、どうして無下にできようか。
その人の悲しみも知らないで。
大事な人を失うことほど、人生において辛いことはない。
 
 
死は誰も知らない。
未知のものを人は恐怖し不安になる。
その中で、色々な死を人は描き、歌い、踊り、伝えてきた。
不思議な事に、死に対しての不安や恐怖というものは当たり前のように認識されているのに、
不老不死もまた「望むべきことではない事」不毛であり切なく哀れなものとして認識されているように思える。
 
生きることが素晴らしいというのであれば、それは死ぬからだ。
 
 
僕が「死にたい」という。
人は躍起になって「そんなことを言うな!」「死んで何になる!」と言う。
別に悪いことをしたわけではないのに。
飛び込み自殺等で、交通機関に迷惑をかけるわけでも、警察にお世話になるわけでもない。
ただ、思う「死にたい」に対して多くの人が嫌悪する。
純粋に僕の死を望んでいないという事には大変嬉しく思う。
周りの人は大事にしたいと常日頃思うし裏切ることなどしたくない。
それでも思ってしまうのだ。
 
自分がいかに欲張りで我儘だと言うことはわかっている。
飢えることもなく、特に難病奇病にかかるわけでもなく、五体満足に生きている。
愛する人達がいて、好きな音楽や仕事もできている。
それでも、「死にたい」と思ってしまうのは渇くからだ。
足りないんだ。
何かが。
あれもしたい、これもしたい。あぁなりたい、こうはなりたくはない。
自分の人生に我慢がならない時がある。
鬱の人は完璧主義の気合があると言うが、そんな大したものではない。
自分なんぞが何ができる、と。屑だと思う。僕は鬱ではない。
身の程知らずの強欲者なだけだ。
 
 
だからこそ、僕はいつ死んでもいいし「死にたい」とも思う。
自分の歩んだ道に反省はあれど、後悔はない。屑の割には良くやってきた方だ。
特に十代の頃、「生き急いでいる」と言われることがあった。
そりゃそうだ、いつ死ぬかわからないんだから。
当時よりは、時間の流れを大きく捉えられるようにはなったが、「明日死んでもいい」と言うのは変わらない。
年齢とともに減っていくが、それでも夢・目標はまだまだある。
少しずつではあるが、迎えてる気がするからこそ、いつ死んでもいい。
夢半ばで死んだって諦められる。屑の割にはようやった。
いよいよ、進めなくなっても諦められる。屑の割にはようやった。
大事な人を遺してしまう。遅いか早いだけ。屑の割にはようやった。
 
 
僕は自分が好きではない。
だけど、生きてきて選択してきた僕の人生を否定はしない。
仮に僕が自死を選んだら、それはそれは迷惑をかけてしまうだろう。
だけど、その「自死」という選択そのものを批判される筋合いはない。
僕が定食屋に一緒に連れ立って、生姜焼きを頼もうが鯖味噌定食を頼もうが誰も批判しないだろう。
そこで、くさや定食なるものがあって頼んだら嫌な顔をされるだろう。
それは本当に申し訳ない。
でも、メニューにあるんです。選択肢にあります。死は。
 
 
 
断っておくと、これは自殺宣告でもなんでもない。
生きていく。
「死にたい」と思えるくらいに、生きる。
屑の割にはようやってる。
それでも、本当に死が近づくと「やっぱり生きたい」と思うんだろうな。
屑やから。
 

 Akira